隆兵そば
2018年5月10日

職人 作家 アーティスト

今回は職人、作家、アーティストと題しておりますが、なにもそれは工芸をやる人に限ったカテゴリーではなく、料理人についても職人タイプ、作家タイプ、アーティストタイプに分けることができると思います。

これはあくまでも私自身の分類なので、そう感じない方もいらっしゃるとは思いますが、それぞれのタイプについて述べたいと思います。

まず職人タイプ。イメージとしては誰もが一番イメージしやすいのが職人タイプではないでしょうか?
とにかく突き詰める。そこに経費や時間や労力がかかろうとも、品質を最優先にするのが職人タイプだと感じます。ただ、「時間をかけてでも良いものを作る思い」は持っていますが、「時間をかけずに良いものを作る技術力」をつけることが職人の本分と知っているため、高品質のものを早く生産出来る人が多いです。またそうなることこそ生き甲斐としているように感じます。
しかし、必ずしも本人は経営者でなくても良いタイプだと思います。

次に作家タイプ。これは私の中では職人タイプとアーティストタイプの真ん中という位置付けをしております。
品質にもかなりこだわるけれど、経費や時間、労力はいくらでもかけるかといえばそうではなく、良いものをつくるための適切な経費や時間、労力とは何かが常に分かっている。つまり、もの自体の品質と、それに見合う経費や時間、労力の配分とをたくみに調整出来る能力、とくに時間配分がうまいタイプが作家タイプだと感じます。
バランス力にすぐれ商売人としても引き過ぎず、出過ぎず、ちょうど良い位置で好感を持たれるタイプだと感じます。

次にアーティストタイプ。アーティストタイプももの作りの妥協はせずに高品質を求めます。ただ、求める先の視点が職人や作家とは少し違う気がします。セルフプロデュース込みの高品質。つまり、「自分の」作品という打ち出し方が多いように感じます。頼まれた仕事をすることが苦手で、「自分の世界観を世に問う」というものの作り方であるように感じます。プロデュース能力に長けている為、お金もたくさんついてくるタイプだと感じます。

どのタイプもそれぞれに魅力的であると思いますが、はたして、自分はどのタイプなのか?または、どのタイプを目指しているのか?ということが大切であり、同時に自分ではわからない問題でもあるように感じます。

私の答えは既に決まっています。

「全部」

2018年4月1日

満開、いや、散り始めですね。
日本人は何故こんなにも桜が好きなのでしょうか。「美しく咲き、潔く散るからだ」という人がありますが、私は何かそれだけでは無い気がします。

花が余りにも美しく、また、寒い冬が明け、暖かくなり始めたのと同時の開花ということもあり気分が高まり気がついていないだけで、桜にはもっと深いところにおいて人の一生、人の本質があるからだと感じるのです。

つぼみができ、それがだんだん大きくなり、花が咲いて、やがて散ってゆく。その間には晴れた日もあり雨の日もあり、風の日もとても寒い日も、結構暑い日も、いろんな日がある。
よく晴れた日にゆっくりとした風の中で、きれいに散ってゆく花もあれば、風雨にさらされながらボトボトになって地面に落ちる花もある。

いずれにしても、一人の人の一生は、この蕾から散ってゆくまでの桜と同じような気がします。
ただ、それだけではここまで桜が好きだと言う理由にはならないと思うのです。

本質は花の部分のみにあるのではなく、桜の木自体にあるのではないかと感じます。

散った後の桜はやがて葉桜になり、暑い夏を越え、桜紅葉になり、葉っぱが散って冬を迎え、また春になり蕾をつけ花を咲かす。
人間の一生が「蕾から花を咲かせ散る」ことだけならば、なんと軽い一生なんだと思います。
本来はそうではない。
桜の木のように、ずっとずっと繰り返し、繰り返し、続いていく命なんだと言う事をどこか深いところで感じているからこそ桜が好きなんではないかと思います。

それならば桜でなくとも何でもそうではないかと言われるかもしれませんが、桜の花の美しさが象徴的すぎるので、人生に例えやすいのかもしれません。

また、ずっとずっと繰り返し続く命であっても、桜の木もいつかは倒れるではないか、とおっしゃる方もあるでしょうが桜の木は地になり地球そのものになりずっとずっと続いていく。たとえ地球が消えてなくなっても今度は宇宙そのものに同化して続いていく。

その人の命はその人の人生一回限りですが、その人の本来の、本当の「命そのもの」は、桜の命と同じく、地球の命と、宇宙の命と同じくずっとずっと、繰り返し繰り返し続いてゆくのです。

咲いて散ることばかりにとらわれず、ずっとずっと続いていくと言う大真実に徹底して仕事ができればと散りゆく桜を見ながら感じました。

2018年1月29日

本物

本物は何か?
という問いに対して明確に答える事は、かなり難しく思えます。

物事を追求し出すとキリがないですし、真剣にやればやるほど、どこまでも本当でない気がして来るものです。

逆に大して追求しない人がほんの少しだけこだわりのある商品を手掛けると本物志向などと気軽に言います。

本物かどうかは最終的には、作り手に罪悪感があるか無いかということだと思います。
ほんのこれっぽっちもないなら本物。ほんの少しでもあるなら本物と言い切るワケにはいかない。
そんなところだと思います。

有り難いことに、私は自分の仕事に対してほんの少しも罪悪感がない。出来ているか出来ていないかなら、きっとまだまだ出来ていないはずです。
しかし、やっていることに罪悪感は一ミリたりとも無い。

良かった良かった。

2017年12月17日

アク

黒豆を炊くと、炊き始めにかなりのアクが出ます。

よく味が濃くなるからアクをとらずに炊くということも耳にしますが、やっぱりアクはアクです。そういうキツイ味ではなく、アクを除いた奥にある豆本来の「純粋な」甘さを引き出せてこそプロフェッショナルなのではないでしょうか?

これは黒豆に限らず、蕎麦や豆腐やその他様々な日本料理に通じているように思います。

濃い味こそが旨さということが近ごろ定着しつつあるのかもしれませんが、確かに旨さではあっても美味しさであるとは思えません。

その旨い味はアクの味ではないですか?

かといって水くさい料理を「頭で」「美味しい」に変換してはいないでしょうか?

ほんまもんはどちらでもありません。
きちんと味がして、なおかつ、きれいであります。
わかりやすく狙った「ふわとろ」なんかではなく、いっけんごく普通に感じながら、やっぱり美味しいと思える「大いなる普通」こそ、わたくしが目指す究極の美味世界です。

禅の修行の一番最後の段階も、煌びやかな高僧の衣を纏う訳でなく、普通の人々と何ら変わらない生活スタイルをもってして、尚、人々に良い教えができる人格が形成されると十牛禅図にあります。

わたくしはこういう日本の素晴らしい感覚が無くならないように、それを料理を通じて表現したいですし、それがわたくしの生きる道だと強く感じます。

2017年12月11日

身体に馴染む食べもの

その土地その土地に、その土地の味があり、その家その家にその家の味があります。当たり前のようですが、現代生活においては「そんなこと当たり前や〜っ」と言うことが難しくなりつつあるようです。

先ず、家の味が徐々になくなり始めていると聞きます。
出来合いのもの、または、炒めて混ぜるだけの調味料、ほぼ外食、など。
飲食店としては、ほぼ外食は嬉しい限りですが、やはりお子様には家庭の味を知っていただきたく思います。

たまに店の残り物を家でいただくことがありますが、店の味は張り詰めた味がします。
それは店で食べるから美味しいのであって、家でたべるにはリラックスしない味なんです。

料理人は少しの事にも緊張感をもって仕込みをするので、味にエッヂが効くんでしょう。
店ではそうあるべきだと思いますが、家庭の味には向きませんね。

一方家庭の味はおおらです。落ち着きます。そういう「ほっとする」味をお子様には覚えていただきたいと思うのです。

次に、その土地土地の味も徐々に衰退しつつあるようです。京都はまだそういう文化が残りやすい土壌だとは思うのですが、祭りの減少と共に忘れられていく味があると聞いたことがあります。

あとは急速な輸送手段の発達により、世界中の食材がボタン一つで購入出来る時代になったことも、便利なようでいて実はその土地の本来の食の在り方を変える大きな要因になっています。

珍しいものを求めることは悪いことではありませんが、やはりそういうものは身体に馴染みにくいのです。

日本人は明治まで牛乳を飲まなかった為、未だに牛乳が馴染まずお腹をこわす方は多いですね。

やはり身体に馴染むものは身近なものなんですね。
その身近なものを感動出来るものに仕上げるのが本当の腕前というものではないかと私は思うのです。

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